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外出先から遅くに帰宅したあと、NHKでやっていた「爆笑問題のニッポンの教養」を見る。 昨年夏に放送された番組の再放送だったが、東京芸大の宮田学長との、表現とはなんぞやということに ついての話は、なかなか含蓄がり、刺激の多いものだった。 10代のある一時期、僕は真剣に芸大に行こうと考えていた時期がある。 今になって考えてみれば、それは野望というか、妄想に近いモノだったのだろうと思うし、事実、種々の 事情や才能の問題等々であえなく撤退したのだから、現実と理想の乖離だったことは明白である。 でも当時から変わっていないのは、「お前の考えていることはわからない」「どうしてそんな物言いを するのか理解できない」と僕に対して繰り返される数々の批判や意見は、単純に僕が伝える術を持って いないからだというある種の結論である。 理解できないというのはお互いの間に共通する何か(言語であったり、共有しうる知識であったり)が 欠落している状態なのだと思う。表現するということはまだ非言語的な状態にある自分のイメージを 何かの力を借りて、より伝わりやすくする作業なのだ。 番組の中で「伝わらなくても構わない」というようなことを言っていたが(もちろんそれは同時代的に ということでだが)、根本的にハナから伝わらなくて良いと思って表現物を作っているのだとしたら、 それは他者に開陳する必要などこれっぽっちもない何かに過ぎない。絵画であっても彫刻であっても、 もちろん写真であっても。 伝えようとする何か ―― 漠然としながら、なぜかはっきりしている何か ―― を持っていないのだと したら、結果として出来上がった物体は、方法論だけを利用した造作物にしかなり得ないのだ。 もちろん伝えようとする何かを持っていたからといって、それが過不足なく、作り手の意図のままに すんなり伝わるかと言えば、そんな僥倖は奇跡ほどの確率でしかないのが現実で、表現者は常に 見せた結果として発生するギャップと、そもそも伝えきれないというジレンマの中でもがき続けている のだろうと思う。 裏を返せば、さほど考えることもなく、工業製品のように制作物が出来上がっているのだとしたら、 それは本質的には表現しているモノ ―― 何かを指し示しているモノにはなっていないというシグナル でもあるのだと言えるのかも知れない。 我が身を振り返ってみると、僕はまだ自分の表現したいことの本質を見抜くまでは考えていないように 感じて、テレビの前で鳥肌が立ってしまった。 写真の深淵ですら相当深くて困惑しているのに、さらに自分自身がいまだ混沌とした状態であると 気づかされた感じがしている。 (2008.7.15. 西新宿/昨年の放送日に撮影したもの)
by ash1kg
| 2009-08-15 03:12
| 写真日記
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