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ビンラディン容疑者殺害に思うこと
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9.11のテロ発生以来、首謀者と目されていたオサマ・ビンラディンが海兵隊の特殊
部隊によって殺害されたのは周知のことであろう。
オバマ大統領の声明発表がアメリカの現地時間の夜半にもかかわらず、テロの標的に
なったロウワーマンハッタンのツインタワー跡やホワイトハウス前には群衆が押し寄せ、
お定まりの「U.S.A.」コールが響き、人々の顔には勝利に上気したような顔が多くあった。

ニュースで伝えられた映像を見て違和感や嫌悪感を持った人も少なからずいると思う。
僕もその一人だ。
確かにハイジャックした旅客機を高層ビルに突っ込ませるなど、信じがたい残虐非道な
行為である。何も知らないままビルの崩壊と共に命を落とした人達のことを思えば、
このテロを計画した人間達を許せるはずがない。かく言う僕も数人の知人をビルの
崩落で亡くした。だが、今度の急襲、殺害作戦には言いようのない違和感を覚えて
しまうのだ。

どう受け取られるかは判らないけど、この数日、心の中で交錯したことを正直に書く。
ウサマ・ビンラディンが首謀者なのであれば、どれほど残虐な殺され方であったとしても、
それもやむを得ないことなのだろうと思っていた。
釜茹でだろうが鋸挽きだろうが、作戦名にたとえて言うなら皮剥ぎであったとしても、
それは自らがやったことに対する報いなのであろうと、そう感じていた。
それは因果応報であり、復讐であり、例え殺害がきっかけとなってさらなるテロへと
繋がるのだとしても、ただアメリカ人である、あの日アメリカにいたというだけの理由で
殺されたのだから、その心情は理解できる。
あの9月11日、親しい人、大切な人を亡くした誰かがビンラディンを拉致し、どれだけ
残虐な方法で殺害したとしても、僕は納得し、共感すらしただろうと思うのだ。

アメリカは独立戦争以来、他国の攻撃を本土に受けたことはない。日本のような悲惨な
経験もなく、そういう経験の欠如が被害者意識を最大化したのではないかと想像している。
そう考えれば今度の「ジェロニモ」作戦実行後の反米感情が増大する可能性とのトレード
オフを承知の上で判断したであろうことも、あれだけ巨大な国家がたった一人の個人を
「National Enemy」としたことにも納得が行く。
それでもなおマンハッタンで快哉を叫ぶ姿には違和感が残る。

「これはアメリカ人という特性を嫌悪していることに依るのかな」と自問してみたが ――
あのアメリカナンバーワン的な国民性はあまり好きではないし、そもそもの建国の由来が
「原理主義的なピューリタン」といういささか極端な(現代風に言えば「カルト宗教」的な)
者たちの理念に基づいていることも遠因なのではないかという偏見も僕にはある ――
そもそも僕は復讐自体は否定していないし、復讐が達成された喜びというのも理解している
つもりなので、それだけを持って普段感じている嫌悪感をビンラディン殺害への反応に持ち
込んでいる意識はない。
いつもの嫌悪感とは違うなというのはニュースを聞いた当初から感じていたことなのだ。

人ひとりを殺害したことに手放しで喜んでいる光景に違和感を持ったのかと想像してみた
のだけれど、そういうことに喝采を送るのは日本人だって例外ではない。僕が真っ先に思い
浮かべたのが赤穂浪士だ。

あまり詳しくは書かないが、江戸時代の幕藩体制というのはある種の合衆国/連邦国家だ。
藩は中央政府の幕府と上下関係にありつつ、藩そのものは連邦法意外の部分では独立性を
保っていた。
浅野内匠頭の「松の廊下の刃傷」で取り潰された播州赤穂藩をアメリカ、高家肝煎の吉良
上野介をビンラディン、討ち入りをした47人の義士を作戦を実行した特殊部隊のシールズ、
吉良家と密接な関係があった米沢藩をパキスタンと置き換えると、歌舞伎に仕立てた元禄
赤穂事件と実によく似ている。
そして何より、当時の江戸の庶民達は喝采を送り、現代日本人も仇を討つ赤穂浪士の活躍には
胸を躍らせ、溜飲を下げる。マンハッタンで「U.S.A.」を叫んだ彼らと同じメンタリティを
僕らも有しているのだ。

赤穂浪士は表向きの標的を吉良上野介としていたけれど、実際のところ大石内蔵助が目して
いたのは幕府の赤穂藩取り潰しという判断の是非であって、吉良上野介はスケープゴートに
過ぎない。
高倉健が内蔵助を演じた「四十七人の刺客」で描かれたように、赤穂浪士は殺人者集団なのだ。

「それなのになぜ?」
赤穂事件との類似に気付いてからも、僕の違和感は解消されなかった。
そして行き着いたのは判官贔屓という日本人の多くが持つ感覚によるものではないかという
ことだった。
正義は乱立し、ときに背反してしまうのは世の道理である。正義は一種類ではない。
にもかかわらず強国の論理 ―― 巨大な正義と言っても良い ―― が常に優先されてしまうことに
違和感を覚えているのではないかと思う。

少なくとも赤穂浪士の面々は事件のあとに裁かれた。
子孫や元藩士達は事件後、他藩で重用されたとも聞くが、殺人者であった彼等自身は裁かれ、
切腹という処断が下され、粛々と腹を切った。
それは予め判っていた自らの正義を押し通す代償としてもたらされる責任であり、その責任を
正面から背負ったその潔さまで含めて、ようやく我々は無意識裡に殺人者である浪士47人を
受け入れることができているのだとも思う。

強国アメリカは誰にも裁かれることはない。為政者の常套句である「裁くとすれば、後々の
歴史家が我々を裁くであろう」という弁明のみで、同時代的には何ら裁きの場に引き出される
ことはないのだ。

殺害されたビンラディンを判官贔屓の対象にする気にもなれず、贔屓するべき対象を見失った
ままの状況でなお、事後的にいくらでも自己正当化できるという、そのあまりにも不公平な
前提に僕は違和感を覚えているのではないかと、いくつもの錯綜を抱えたままの今の時点では
おおまかにそう思っている。
by ash1kg | 2011-05-05 01:28 | 日々雑感
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影と光、記憶と個人的な記録
by ash1kg
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