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2つの写真展
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出かけたついでに都写美で会期末寸前の「こどもたちの情景」とジョセフ・クーデルカの「プラハ1968」を見てきた。
クーデルカは先週も見ていて、今日が二度目だ。
写真展そのものをあまり見に歩かない僕としては、同じ写真展を二度も見るのは非常に稀なことで、どうしてももう一度見て確かめたいことがあり、二度目の来訪となった。

ここのところ「写真の記録性」ということが以前にも増してアタマの中をぐるぐると回り続けている。
写真とはいったい何者なのか?という問いはもう20年も前に立てたまま、いまだ答えが見つからないままの疑問なのだが、なくともメタフィジカルな普遍性を取り除き、現実に寄り添って考えて見たとき、写真の本質とは「記録性」にこそあるのではないかと感じている。

写真は事実を写しとれるわけでもなければ、真実を伝えるわけでもない。
撮影者の恣意思惑によって選択され、限定的に切り抜かれた世界の断片でしかない。
そこには撮影者の何らかの意図があり、撮影者の性向を反射的に表した撮影者自身の本質が投影され、少なくとも同時代的にはそれらのものがプリントされた写真と共に世に晒される。
だが、時間を経るごとにそういった撮影者自身にまつわる様々なことは摩耗し、影響力は失せ、一義的には無視され、プリント1枚に残った撮影した当時の記録性だけが注目されるようになる。
つまり「誰が撮ったか」「なぜ撮ったか」よりも、「いつ」「どこで」だけが重要度を増していくというわけである。

クーデルカの写真は68年のチェコ侵攻のドキュメンタリーであり、まさにいま侵攻が進んでいく様子が手に取るようにわかり、撮影がソビエトその他の侵攻を受けたチェコスロバキアの側から撮られているという点で、緊迫の度合いはいまでもピンと張った糸のようだ。

「こどもたちの情景」でも著名な写真家達が撮った写真から「戦争とこどもたち」というテーマに即した収蔵作品を選び写真展を構成していたわけだが、それらも終戦から遠く離れた現代から見たときに、まず注目されるのはやはり当時の「記録」だったように思う。

確かにカルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」という哲学に則って撮られた写真は美しい。
和製ブレッソンと呼ばれた木村伊兵衛の目が選んだ瞬間も、「絶対非演出の絶対スナップ」というスローガンを打ち出そうが打ち出すまいが、土門拳が目を向けた情景を見れば、土門拳がいかなる人だったか、朧気ながら浮かんでくる。
だが、それもこれも記録性の前ではさほど意味のあることだとは思えなかった。

木村伊兵衛は戦時中、軍部の命令に従って要求されるがままの写真を撮った。
仕事であればそれも当然だったようにも思うのだが、戦時中の写真を見ると巷間言われているように戦争の悲惨な陰の部分には手を付けず、軍部翼賛的な写真ばかりである。
日系人を敵性外国人として強制収容した「マンザナー収容所」の様子を収容者側の立場で撮った宮武東洋と、支配者側の立場で撮ったドロシア・ラングの写真は似ているようでやはり違う。
立場が違うのだから映し出されることは真逆で当然なのだが、木村伊兵衛が撮った写真にはクーデルカはもちろん、戦後、土門拳や田沼武能、林忠彦、東松照明らが撮った厳しく悲惨な生活感というものは見えてこないのだ(手法は「絶対非演出」であるにもかかわらず)。
これを持って「記録」としてしまったら、は時代を大きく誤解させるのではないかと感じるほどに。

写真の記録性は、撮影者の恣意性が排除されない以上、絶対非演出の絶対スナップでも担保されない。
悲惨なもの ―― 例えば会場にもあった山畑庸介の「長崎ジャーニー」からの一連の写真(長崎に原子爆弾が投下された翌日からの写真)のような凄惨な写真だけが優れているわけでもない。
とどのつまり、優れた記録性を有しているかどうかの判断は時代を経ることでしか確かめようがないということだ。
そのことに気付いた感触を持ち続けたまま、出口付近で土田ヒロミの「ヒロシマコレクション」からの写真を見て、いちばんシンプルで、何よりも雄弁で、どれだけ時代を経ても磨り減ることなく記録的価値を保ち続けるのはこういう写真なのではないかと感じた。
掛けられていたのは爆心地近くで被爆し、遺体となって発見された少年のはいていた半ズボンを撮ったものだった。

自分の写真を振り返り、意図や目的や、シャッターを切った理由などを消し去ったときに、自分の写真にどれだけ記録性が残っているだろうと考え、おののいた。何もなかった。
仮に僕の写真が50年の後まで残ったとき、見た人は何を見出すのか。
何もなかった。

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戦中、戦後の往時を振り返りながら写真を見ている老夫婦の話は脇で聞いていても考えさせられるものが多かった。
団塊の世代とおぼしき夫婦が自分たちが生まれるほんの少し前の情景を見つつ、話をしているのもそれなりに感じるところがあった。
戦争とは無縁の若い人が食い入るように見ている姿に、ちょっと安心した。
木村伊兵衛の写真の前で「これはライカってカメラで撮られていてね」と、知ったかぶりの知識で連れの女性に写真展の趣旨とは無縁のとんちんかんな解説をしているカメラマン気取りの奇妙な格好をした30代半ばの小僧はひたすら煩わしかった。
見方はいろいろだが、でかい声で解説自慢するなら、もうちょっと的確なことを言ってくれ。
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by ash1kg | 2011-07-10 02:13 | 写真日記
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