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写真家と写真家未満の差なんてないも同然だ
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昨日から10回連続の講座の後半戦が始まった。
前半が写真の黎明期の追体験がテーマだとすると、後半はデジタルを中心とした先端寄りのことがテーマに変わる。
講師の先生も変わり、第一線で活躍しているフォトグラファーが後半の講座を受け持つというので、どんなことを学べるのかが非常に楽しみだった。

どうでも良いことだけれど、僕は「フォトグラファー」という言い方が嫌いだ。
たいていの胡散臭いことは好きなのだが、「フォトグラファー」という音の響きに胡散臭さを糊塗するような狡猾さを感じてしまう。

閑話休題。
カメラマンとフォトグラファーと写真家がどう違うのかについては写真家の渡部さとる氏が「写真家とカメラマン」というブログエントリーで自身の経験を絡めて面白い意見を述べられている。
写真家は資格制度ではないし、「家」と付く職業の大半は勝手に名乗って構わないはずなのだが、「写真家」と名乗るには二の足を踏む人が多いのではないだろうか。
それは写真家と名乗ることで荒木経惟や蜷川実花と同列に括られるということに対する躊躇であり、畏れ多さであり、気恥ずかしさがあるのではないかと推察する。

僕は英語ができないので正確なことは判らないが、写真家に相当するのは「Photographer」であって、コマーシャルだろうが、現代アートだろうが、十把一絡げで「Photographer」と言ってしまってるのではないだろうか。それともわざわざ「Photographic artist」とか「artist of photograph」なんて言っているようには思えない。
「アメリカ人の大雑把さ」と言ってしまえばそれまでだが、過大評価をしてしまっているというか、日本語では区別できてしまう分だけ、それぞれが勝手にハードルを上げてしまっているのではないかとも思う。


講師の先生と話をしていて気が付いたのだけれど、アナログ写真の特殊性は暗室作業という「ブラックボックス」的な存在によって支えられていたようなものらしい。
ケミカルの要素が強く、操作一つで結果が大きく違ってくるアナログ写真で均一の質を再現するのは職人的な技術の体得が不可欠だった。
ところが写真がデジタルに取って代わってからは、「写真家」も相当混乱している感じなのだ。

もちろんカメラの操作や撮影技術については一日の長がある。
写真の到達点がプリントして見せることだとすれば、彼らがフォトショップの操作や加工についてすべてを把握しているわけでもないし、僕が親しくしている写真仲間の方が遙かに詳しかったりもする。
知識の総量で比較するのなら大差はない。

たぶん「写真家」に必要な条件というのは技術であるより、こだわりなのだろう。
「このカメラ」とこだわるのも一つであろうし、このレンズしか使わないと決めるのも一つだろう。
もちろん被写体を限定するというのも、色あいを決めるというのもこだわりの一つだ。
そうすることによって醸成される個性としか言いようのないものを持って「写真家」たりえるのではないかと、昨日の講義を受けながらふと思った。

僕の写真仲間は皆「写真家」と名乗るにふさわしい人たちばかりだし(名乗るかどうかは好き好きだけど)、すでに写真家と名乗っている人たちとの差は、実はすでにほとんどない。
僕は名乗る気などさらさらないけれど、名乗った者勝ちという感じすらする。
少なくとも他者からそう呼ばれたときに気後れする必要はまったくない。
知識を物差しにするなら、写真家の持っている知識は突出している部分があるだけで、総量としてはそれほど多くはない。
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by ash1kg | 2011-11-13 11:57 | 写真日記
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影と光、記憶と個人的な記録
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