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春の写真を見て思ったこと
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昨年暮れにオープンした中目黒のギャラリー「Poetic Scape」で、今日まで開催していた熊谷聖司さんの写真展「Spring 2011」。
散歩で行ける距離ということもあるのだが、ギャラリーのサイトに出ていた写真を見てから、珍しく「どうしても見たい」という衝動に駆られて、昨日、写真仲間のトマさんと一緒に2度目の訪問をした。

震災が起きた年の春を撮っておかなければと思って、熊谷さんはレンズにワセリンを塗って外に出たのだそうだ。
ワセリンの膜の向こう側で現実は曖昧にぼやけ、光が柔らかく揺らめく。
地震のあった年の春ということではなく、僕には僕の中に在るいつか見た春という感覚が薄れない。
最初に来た日の夜には、なぜかとても懐かしい春の風景を前にさめざめと泣いている夢を見たほどだ。

写真というものは撮影者の意図にかかわらず、見た人間の内部に呼応するものでもある。
「私はこう作った」「私はこう見た」という距離感が絶えず起こり、そのギャップが新たな発見や、お互いの理解に繋がる。
決して長い時間ではないが熊谷さんと話をさせてもらって、見方や見え方の差異について決して小さくない発見があった。それはしなやかに強い意志がまるっきり別のところにあるような感覚だった。

レンズにワセリンを塗って撮る手法はそれほど珍しいものではない。
高校の写真部の部室には「ワセリンレンズ」と呼ばれている部所有のレンズがあった。
ソフトフォーカスフィルターなんてものが手に入らなかった頃、僕たちもそのワセリンレンズで撮ったことはあったが、部のレンズは手入れもされないまま塗り重ねられていった様々なもののために ―― おそらくはワセリンを拭き取ることもしないまま、上からポマードだのサラダオイルだの、いろんなものを塗ったのだろう ―― とても「写る」なんて言えるシロモノではなかった。

一度ワセリンを塗ったレンズは、分解清掃に出さない限りワセリンは落とせない。
つまりそれ専用、裏を返せばハナから1本のレンズを潰すつもりで使うということなのだ。
(「そんなのフィルターに塗れば良いじゃん」と思う人もいるだろうが、そう思ったなら試してみると良い。レンズに直にワセリンを塗ったものとは写り方が全然違うから)

写真はカメラで撮るものだが、カメラが撮るものでも、ブランドが撮るわけでも、レンズが撮るわけでもない。自分が撮るものだ。自分が撮らなければ、写ったものに自分が写り込むはずがない。
迷わずレンズにワセリンを塗って、外に向かう。
こういう「意志」の有無が、特別な資格など要らず、技術の進歩によって縮まったにもかかわらず、未だにはっきりと残る「写真家」というものと、そこに辿り着かない人をわける境界線なのだろう。
今の僕にはレンズを潰す勇気はないけれど、イメージから喚起される何かによって語り合えるような写真が撮りたいと改めて思った。全然別のやり方で。

春が苦手の僕にしては珍しく、今年は春が待ち遠しい。
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by ash1kg | 2012-02-05 00:49 | 写真日記
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影と光、記憶と個人的な記録
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