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以前、僕はイメージとしての美しさを写真に求めていた。 それは単に美しい花や風景を撮るということではなくて、写真を見た人 ―― 当然、僕自身も含めて ―― がふっと肩の力を抜くことができるような、心穏やかな写真を撮りたいと考えていた。意味もなく忙しかったり、あれこれと気遣いをして自分を磨り減らしながら毎日を過ごしている中で、写真が疲弊に追い打ちをかけるようなものでなくても良いだろうと思ったのだ。ちょうど30代のはじめぐらいのことだ。 写真は世界に氾濫している。中には事実を伝えるという理想ために(実際は生活のためだったりするのだが)むごたらしい写真を撮る者がいて、その一方ですでに美しいモノを写真という形に固定する者がいる。写真に正解などないのだという理屈からすれば、そのどちらもが正しいのだけれど、僕はどこかで「でもそれだけじゃないだろう」と思えて仕方なかった。 その「それだけじゃないだろう」の中で僕にできることがあるとしたら、並べられた写真と言葉を、僕の写真を目にしてくれるほんの一握りの人の想像・解釈の中で繋ぎ直すことによって、僕の意図通りに再構築してもらうことなのだろうと考えた。見た人自身がイメージしたことでその人自身の気持ちが少しだけ楽になるように、僕が“正しく”ミスリードする。そのためには僕が1枚の写真を撮った意図なんてどうでも良いし、さらに言えば1枚の写真そのものの価値なんてどうでも良いと思っていた。すべては組み合わせた何枚かの写真と、写真同士をつなぎ合わせる言葉、その総合体にこそ意味があるのだと。そうして僕は何セットかの組写真を作り、こことは全然違う場所で公開した。結果は概ね期待通りのものだった。 だがその反動で、僕の中に澱のように溜まり始めるモノがあった。イメージを作るには相応しくない写真たちが積み重なり、悲鳴を上げ始めたのだ。現実は夢物語ではない。きれい事ばかりでは済まないのだ、という分かり切ったことが写真の束となって覆い被さってきたのである。そうして僕はまた、10代の頃のように汚く粗い写真を作るようになった。 そして40歳を越えて数年が経った今、10代の頃に見えていたもの、それを形にしていたことも、同じイメージを抱かせるためにさまざまなギミックを凝らした30代の頃も、そのどちらもが自分なのだとようやく思えるようになった。 どちらをどれだけ出していくかはともかくとして ―― ましてや清濁併せ飲んで五分五分などということでは断じてない ―― 、これまでにやってきた両方のことをいつも心に留めておこうと思ったのだった。 ようやく深い森を抜け出たような気分になれた梅雨寒の夜。 (@スパイス・ドッグ/下田(2003-08))
by ash1kg
| 2007-07-19 01:38
| 寫眞萬手控
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