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カテゴリ:日々雑感( 28 )
今日は雪なので籠城中
雪を言い訳に今日はオフにして、あれこれ整理やら読書やら、細々とした作業をこなしている。
ブログの扱いにもなかなか手をこまねいていて、正直持て余していたり。
書きたいことのほとんどはフェイスブックに書いてしまうことが多いし(やはり操作性の手軽さと、読む人の顔が見える楽しさに抗しがたいものがある)、コピーペーストで記事を作るのもどうなんだろうかと思ったり。
ライフログとしての機能がフェイスブックの方が優れてる感じはするけれど、どうなんだろうかね。
ま、日々、写真をアップするだけでもこのブログの存在理由になりそうな気もするけれど。
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by ash1kg | 2014-02-14 14:01 | 日々雑感
都知事選と「100,000年後の安全」
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都知事選の公示が明日23日。
候補者が出揃ったようだが、居並ぶメンバーから誰か一人を選ぶのがとても難しい選挙になりそうだ。
ポジティブな意味で「誰を選ぶか迷う」なら幸福だが、今回はどうやらその逆になりそうで、誰を選んで良いのやらというのが率直な印象だ。
ネガティブに誰に投票すべきかに迷うにしても、「五十歩百歩」ならまだしも「どんぐりの背比べ」ですらないような感じで、言うなれば「帯にはもちろん、襷にも短い」みたいなところ。かといって自分の暮らす街なのだから「これじゃお手上げ」というわけにもいかない。実に難しい。

細川元総理と組んだ小泉元総理が「脱原発」でお得意のワンイシュー選挙をやろうとしているのはあながち間違った戦略でもなさそうに見える。
これが例えば石原元都知事と選挙戦を戦わなければならないなら、かっちりと都政に関する公約なり構想なりをぶち上げての選挙戦になるんだろうが、今回の候補者を眺めてみればそこまで全般的に都政に軸を置いての「がっぷり四つ」にはなりそうもない(そりゃ候補者に言わせれば「そんなことはない」と言うだろうが)。
そういう状況ならいちばんの目玉を全面に押し出すのは有効な戦術と言えなくもない。ましてや震災以降の流れの中で再稼働に反対したり、疑問を感じてる人がけっこうな割合でいるのだ。しかも正面切って「再稼働賛成だ」と言い切りにくいという雰囲気もある。

政府与党は「都知事選に馴染まない」とさかんに言っているけれど、国会議員が国会でがやがや声を上げるよりも、かえって地方自治体から反旗を翻される方が政府にとっては嫌なことなんじゃないのかと思っている。
仮に反原発・脱原発を旗印に選挙に大勝ちしたとすると、そこに投票した都民は、いずれ国政選挙の時に誰かに投票をする国民なのだから、言下に否定するわけにもいかない(やがては我が身に跳ね返ってくるのだ)。
そういう意味では東京は国会よりも強力な圧力団体になり得る可能性があるということだ。
選挙の結果はどうなるのかわからないけれど、小泉さんは面白いところに目を付けたなあと思う。
(息子のシンジロウ議員の立場としてどうなのかはわからないけど。将来の総理総裁コースに乗せるための遠謀深慮の可能性だってあるし)
でも自民党の面々からさかんにあれこれ言うのが聞こえてくるということは、小泉さんに騒がれるのはやっぱりかなり嫌なことなんだろうな。永田町でふんぞり返ってる連中がオロオロするのを見るだけでも気分のイイものだ。


フィンランドの核廃棄物処分場の「オンカロ」のドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」がYouTubeで来月10日まで無料公開されている。
小泉さんが見学をして脱原発に方針を転換したと言われるオンカロ。
投票日までに見てから、誰に投票するのかを考えるのも悪くない。

「100,000年後の安全」 http://youtu.be/dtH_Lkd73eQ


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by ash1kg | 2014-01-23 01:11 | 日々雑感
美人は美しく泳いで欲しいという身勝手な話と少年少女のモチベーションの元について少々
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今年の泳ぎ納めにちょっとだけ頑張って3000m泳いできた(来月は改修のため使えなくなる)。
といっても温室のようなプールの暖かさに引き寄せられたのか、どこぞから集まってきたおばあちゃんたちでいつもよりもずっと混雑。そのおばあちゃんが千切れた藻かクラゲかというような速度で漂う中をすり抜けて泳がなければならないので、泳いでは止まり泳いでは止まりを繰り返して、たった3000m泳ぐのに2時間半もかかってしまった。

泳力の違う人たちが混在するプールでは追いつかれたら譲るのが原則なんだけれど、ご当人たちは快適なクルージングスピードで颯爽と泳いでいらっしゃるつもりなのか、一向にコースを譲る気配はない。もしかしたら「若僧は年寄りの後をついてくれば良いのよ」とでも思ってるのかもしれない。
昔ならイライラして血圧を無駄に上げていたところだが、こちらもただ健康維持が目的なので、目くじらをたてる筋合いではない。それどころか母親とそう変わらない年齢のご婦人がたどたどしいフォームで泳ぎ続けているのを見ると、頑張ってるなあと感心してしまうくらいなのだから、年齢を重ねるというのは恐ろしい。

今日は他にロシア大使館で仕事をしている外交官の家族が何人も来ていて、耳に入ってくる言葉の多様さが面白かった。いつもならタガログ語と中国語が入り混じってるだけなのだが、(ザ・五反田という感じw)ロシア語が混ざるだけで一気に国際感が増す。さながら「ここはどこ?私は誰?」状態だ。

顔見知りのオジさんから(こちらも立派すぎるほど立派なオジさんなのだけど、そこはさておき)声を掛けられて、妙齢の美しいロシア女性スイマー相手の即席水泳教室になってしまった。
聞けばクロールの息継ぎがうまくいかず、長く泳げないのだという。片言の日本語でくだんのオジさんに声をかけ、だったらあの人の方が、と僕に白羽の矢が立ったというわけだ。

モデルさんのような体型ではないけれど、手足の長さや顔の小ささはさすがに元モデルさん。筋肉のバランスも良くて、コツをいくつかアドバイスしたらすぐにきれいなフォームで泳げるようになった。
あれだけすぐにできるようになったのにはおどろいたけれど、きっと身体の動きを自分で制御することに慣れてるんだろう。
手足の長い美人が美しいフォームで泳ぐのって、本当に惚れ惚れするほどきれいで、僕とオジさんは顔を見合わせながら「嫌になっちゃうねえ」と苦笑いするほどだった。

こういうことを言うと怒られてしまいそうだが、美人が溺れてるのか?というようなフォームで泳いでいるのを見るのはかなりザンネンなことだ。でも哀しいかな現実はそういう人が少なくなくて、内心「泳がなければ良いのに」なんて思ったりもする。

学生の頃、中学生や高校生に水泳を教えていたことがあるが、思春期の女の子には「背泳ぎさえキレイに泳げるようになれ」と繰り返し言っていた。
バタフライなど泳げる必要はないし、平泳ぎはあまり美しくない。クロールでザバーっと泳いだら引かれる。とにかく背泳ぎを優雅に泳ぐ。それさえできれば男の子とプールでデートすることになっても良いことばかりだと。特段熱心に指導などしていなかったが、女の子たちの目の色が変わったことは言うまでもない。

ちなみに当時、男の子たちには「クロールをダイナミックに泳げれば女の子にモテる」と言っていた。女の子以上に目の色が変わっていたのは同じく言うまでもない。
いつの時代も「若さ」は「馬鹿さ」ということだ。
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by ash1kg | 2013-11-30 00:17 | 日々雑感
つまりは「特定『秘密』」ってなんだよ、ってハナシなんだよ。
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どうにも気持ち悪いので、まとまらないのは覚悟の上で書くだけ書いておく。
熱心に情報を集めたわけでもなく、テレビやらネットやらでダラダラと流されている情報の上っ面だけをすくい取っただけで考えたことなので、細部まで目が届いた上での考えでもなければ、合わない辻褄を事細かに指摘するようなシロモノでもない。世間で動いている状態を僕がボンヤリと眺め、抱いた違和感を解決など目的にしないまま書き記しておこうというだけのものだ。

特定秘密の保護という考え方については僕はわりと肯定的だが、今回の法案には反対だ。
企業には企業秘密があり、巷のあっちこっちで個人情報がどうだこうだと騒ぐ輩がうじゃうじゃといて、電話番号入りのクラスの連絡網も作れないような世の中で国家に機密がないわけないじゃん、とまずは思うのだ。
外から家の中を勝手に覗かれたのならともかく(それはプライバシーの侵害だ)、街の中で写真を撮っていても「個人情報だから」とてんで見当違いのことを言い出すような無知蒙昧な常識がまかり通っている国民ばっかりの秘密大好き社会だというのに、どうして国家にだけ情報のフルオープンを期待するのか、とりあえずそれって筋が違うんじゃないの?という感じがするのだ(もちろん例外はきっといるのだろうし過度な個人情報にも違和感を覚えているんじゃないかと思うが)。

ジャーナリストが「報道の自由」が制限されると言っているのも見たが、じゃあこれまでどれだけの情報を自分の力で探り出して、炙り出して、世の中に知らしめてきたわけ?と思ってしまう。記者クラブ頼みで、ネットジャーナリズムみたいな新参者をいびり倒すことに執心して、ひどいときには配信されたニュースを元に記事を書いてみたりする「ジャーナリズム」が「報道の自由」と言われても滑稽すぎて笑えもしない。

そもそも秘密ってなんなんだ?と疑問に思ったことが僕にはある。ずいぶん古い話だが学生時代にとあることから秘密ってなんだよという話になり、哲学の講義を受け持っていた先生に質問したことがあった。
その先生の答えは「秘密というのは、持っていない人が手にすれば有益なもので、持っている人にとって誰かに知られたら不利益を被る情報のことだ」というものだった。
なるほど知り得た情報が誰にとっても利益をもたらすものではなく、持っている自分にとってのみ有益な情報など秘密にしておく理由がない。それどころか「聞いて聞いて!」と声を上げたところで誰も興味は示すまい。
つまり、今回の法案に僕が素直に賛意を示せないのは、恐らく他国が知り得たら利益となり、同時に国益を損なうような国家機密を隠れ蓑に「特定秘密」の中に誰かに知られたら自分たちの不利益になる情報をずる賢く混ぜ込もうとしているんじゃないかと疑っているためだ。

要するに、テメエらみたいな姑息な連中がテメエらの都合で「これ、国民に知られたらヤバイから、次の選挙落ちちゃうから、特定秘密にしちゃおうねー」「大臣、これ特定秘密にしておいてくれたら、法案作り、上手いことやっときますよ」みたいなことを平然とやるんじゃないかということ。そりゃムカツキもするし、反対もするってモンだ。

これが真っ当な法案で、真っ当に考えられ、真っ当に審議されて、真っ当に運用されるなら支持も賛意も集まるはずなのだ。
だがその時にはその法律の名前は「特定秘密保護法」ではなく「スパイ防止法」となるはずだ。
何より国家にとって最も重要な秘密は「機密」であって「秘密」ではない。
法案の名前自体、すでに胡散臭いってんだよ。
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by ash1kg | 2013-11-26 23:59 | 日々雑感
私見、デモの意味、脱原発への最短ルート、目指すべき「敵」とは(長文)
そういえば僕自身がどう考えているかと言うことを書いたことがなかったと、ふと気付いた。
まあこれまでの流れを見られているのだから、おおよそ見当は付くと思いはするが、こういうことって明言しておくことが重要な気もする。

福島第一原発の事故で、自分が使っていた電気はどれだけ危ういモノで支えられてきたのかはとんでもなく遅ればせながら知ったし、知った上で言うならば、今の日本で原発を動かすことのリスクがどれだけ大きなモノかは言うまでもない。
それはまるでストーブの前に座った2歳児にマッチ箱を持たせているようなモノだと思っている。安全宣言とやらは「マッチが飛び出ないようにしてあるから大丈夫」と言ってるようなもので、根本的な危なさは全然拭えていない。
こんな状況を見て安全と言えるはずもなく、そういう意味では僕はもちろん原発の再稼働には反対だ。

しかし、残念ながらデモに10万人が集まることがすなわち原発の停止に結びつくと思えるほど理想家ではないので、総理官邸前にどれだけ人が集まろうが、今日の大飯原発の再稼働は「予定通り」行われるだろうと思っていた。
だからといって別に「止められなかった」などと落胆はしないし、有り体に言えば「まあそうだよね」という感覚である。
それは別に虚無的であるとか無関心であるとかと言うことではなくて、そもそも今のシステムに乗っかっている政治家/国会議員などをデモンストレーションの対象にすることも、なにがしかの期待をすることも、それ自体がそもそも的違いだと思っているからだ。

「政治家は選挙に落ちればただの人」という言い方がされるけれど、彼らは所詮は国家というシステムを動かすための消耗品でしかない。使い捨てだ。
そういう宿命を背負った中で、「オレ達が日本を動かしているのだ」と、最も激しく勘違いをしているのは交代のない官僚達だ。
政治の劣化は官僚制度を増長させるというのは今に始まったことではない。
徳川幕藩体制でもそうだし、世界のあちこちの政治史を振り返ってみても同じような経緯はいくつも見つけることができる。
政治が変わるというのは本来「政治家が入れ替わる」ということと道議であるはずなのだが、政治家が劣化し、政治が機能不全に陥り、官僚が実際的な統治者となってしまった現状では、日本がストーブの前にいる幼児にマッチ箱を持たせたまま「安全です」と言うようなブラックジョークみたいな状況を改めるいちばんの近道は官僚制度を更地にする ―― 霞ヶ関を解体してしまうことなのだと思う。

当然、それにともなう混乱が起こることは容易に想像ができるけれど、情報も提供されず、見えない放射能の中をオロオロと逃げ回るよりも遙かに建設的な混乱だろう。
そうするためには、僕らは利権に目を眩ませることなく、ある意味では自分が損をしてでも蛮勇を発揮できる代議士を国会に送らなければならないし、そういう候補者であるかどうかを注意深く観察し、判断しなければならない。
とんでもなく回りくどくて面倒なことだけれど、それが「民主主義」といういささか理想家肌過ぎるシステムなのだ。
(僕は道州制や国家元首の問題はあるけれど大統領制、あるいはアメリカの51番目の州になってしまうしか選択肢はないように思ってるけれど、それはいろんな意見や考えがきっとあるだろう)

ともあれ、本気で原発をなくすのであれば、官邸前のプラカードには「霞ヶ関解体」「官僚を吊せ」とでも書かれるべきなのではないかと僕は思う。
選挙に汲々として、能力もないまま官僚のマリオネットになっている政治家を糾弾するのではなく、霞ヶ関の連中がそうしているように、政治家を便利な道具として使う方が賢いのではないかと思うのだ。

「◎◎しないと落とす」というより「◇◇するなら応援するぞ」と言われた方がある意味不気味でもある(裏を返せばやらなきゃ落とすと言ってるも同然なのだから)。
そういうずる賢さを学ぶためにも、官邸前のデモは良いトレーニングになっている。
大飯原発が再稼働したからといって落胆する必要など全然ない。そう僕は思う。
デモに意味など必要ない。ただただそこにいれば良いのだ。そうすれば数がある基準を超えた瞬間、恐怖心から相手が勝手にいろいろなことを始める。そういうものなのだと僕は思う。
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by ash1kg | 2012-07-02 01:43 | 日々雑感
写真展「FUKUSHIMARCH / 3 months later」 / 私的な記録 / 自分には撮れないもの
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先週の土曜日、写真を介したお付き合いをしている写真家、渡部敏哉さんの写真展にお邪魔してきた。
写真展のタイトルは「FUKUSHIMARCH」。
渡部さんは浪江町の出身で、発災3ヶ月後の一時帰宅の際にご自身の生まれ育った場所やご実家を撮影した写真を発表している。

写真の持っている一つの側面は「記録」ということなのだと僕は信じているのだけれど、記録するのはいつでもどこでも誰でもという意味ではない。しかるべき人がしかるべき時にしかるべき場所を撮ることが重要なのだと思う。
そういう意味ではどれだけ高名な写真家であっても、「それまで」を撮っていない人が「それから」だけを撮って、名前を打ち出して発表するのは何か違うと思うし ―― 撮ることが無意味なのではなく、「あなた」の個人的な感想を教えてもらうのは、まだ先で良いよということだ ―― 使命感だか、好奇心だかしらないけれど、「それまで」を撮ってない部外者がここぞとばかりに出かけていったところでたかが知れていると思うのだ。
もしかすると、それが判っているから、彼らは似たり寄ったりのセンセーショナルな絵だけを拾ってきているのかもしれない。

渡部さんの写真は言わば「私的」な写真だと思う。
写っているのは紛れもなく震災から3ヶ月後の浪江町の様子だが、同時に渡部さんが過ごした場所を僕はのぞき見ている気分になる。
それだけに潰れた家や、玄関先に届けられた3月12日付けの新聞、吠えかかる犬、無人の町がいかに通常ならざる姿であるのか、それが自分の身に起きたことのように感じる。
生活の痕跡がしっかりと残っていながら、誰もそこで生きていないというアンバランスさ。
それは「反原発」などという平凡な言葉ではなく、高台に避難した人たちが津波が押し寄せるのを見ているしかなかったときのぽっかりとあいてしまった目を想像させた。

僕は池袋で生まれ育った。
20年以上を池袋で過ごしたわけだが、仮に今も両親が池袋に住み、僕が帰る場所がそこにあったとして、突然その場所に行けなくなったとしたら、僕は同じように写真を撮ることはできないと思う。
記録、記録などと声高に言っていても、実際に同じような境遇になったとしたら、僕は呆然と眺めているだけだろう。

去年の震災以降、あちらこちらで目にしたセンセーショナルな写真はここにはない。
でも、だからこそ、「それまで」を誰よりも知っている渡部さんの写真は、渡部さんが感じた以上/以外のことも、見ている僕たちに訴えかけるのだと思う。


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「FUKUSHIMARCH」
3月3日~31日
※渡部さんの「3months later」は11日まで。

展示は今回、特設されたテンポラリーのギャラリーで行われています。
東京都渋谷区神宮前3-27-14 ブライダル本間2F
竹下口交差点で明治通りを渡り、一本裏の原宿通りを入った先にある「BEAMS」の向かい側のビル2F。
1階は「Pocket」という雑貨屋になっています。
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by ash1kg | 2012-03-09 01:04 | 日々雑感
哲学の義務
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カント曰く 「哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することである」 のだそうだ。
哲学がその義務を果たしている気配はない。
幻想は確かに幸福だが、本質にとっては目障りで、邪魔なものでしかないのだ。
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by ash1kg | 2012-03-06 00:25 | 日々雑感
作品展二つ/普遍的なこと
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外出のついでで申し訳なかったけれど、今日は二つの作品展にお邪魔してきた。
一つはこの珍しい名字を持つという共通点のあるフェイスブックでお付き合いのある狐塚さん一門の書の作品展、もう一つは森岡書店で開かれている「久保友作 + 山田浩之 二人展」。
初めて知ることが多くて、有意義な訪問になった。

狐塚さんの一門展では書の見方を教えていただいたのだが、その要諦は「密度と余白のバランス、計算された抑揚、堂々とはみ出す勢い。そしてたくさん書くこと」。
まるで写真のようではないかと思いつつ、ギャラリーを出て歩きながら咀嚼をしているうちに、これは書や写真に限ったことではないと気付いた。絵でも映画でも物語でも、それどころかスポーツでも音楽でも、料理ですら通じることじゃないかと。
それどころか人生にすら通用する原則かもしれない。

森岡書店では画家の久保さんが在廊されていたので、しばらく話をさせてもらう。
作品作りのこと。手帳に描かれることになったいくつかの理由。
大阪出身の物腰の柔らかい口調の中にも、モチベーションが強く保たれている理由が口をつき、彼は絵、僕は写真という違いはあれど、少なくない共通点をみつけて、僕は嬉しくなってしまった。

展示の中に印画紙を画材として作られた作品がある。
それは紛れもなく「作品」なのだけれど、それが写真であるのか、絵画であるのか、僕ははたと困ってしまった。
だが本当は困る必要などないのだろうと思う。
そもそも困るということ自体、自分がいかに先入観に囚われているかの証左なのだ。

なにがしかの部分では「写真」とか「絵画」とか「書」というカテゴリー分けは必要なのかもしれない。
だが、それは作り手とは関係のないところで、必要な誰かが必要に迫られてすることであって、作り手自らが自分の入る箱を選ぶ必要などこれっぽっちもないのだ。

開発技術が進化した今、写真を撮ることはさほど難しいことでも、特別なことでもなくなった。
昔と比べれば「撮れてしまう」写真も多くなっていることだろうし、フロックの頻度も高くなっているはずだ。
もしかしたら極めて高品質なフロックそのものを再生産することすら可能かもしれない。
だからこそもっと自由で良いのだと思うし、自由であるべきだと思う。
自ら望んで囲まれたワクの中に安住し、まるで似合わない制服のようにマットを掛けられ、額装されたのでは窮屈になるだけだ。
すっかり日が伸びた夕方の街を歩きながら、僕はそう思った。
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by ash1kg | 2012-02-22 00:50 | 日々雑感
国会にくじ引きをと改めて思ったドラフトの日
プロ野球のドラフト会議があった。
巨人の原監督の甥っ子が巨人に指名されるという大方の予想に反して、くじ引きで当たりを引き当てたのが北海道日本ハムということで盛り上がったようだ。

思えば原監督が東海大の4年生だったときのドラフトを、僕は高校1年だか2年だかの5時間目ぐらいに聞いていた。正確には携帯ラジオのイヤフォンを耳に突っ込んでいるK君から回ってくるメモを見て、その年のドラフトの動向に一喜一憂していた。
巨人が原選手を引き当てたとき、巨人ファンのK君が思わず「やった!」と叫び、ラジオを取り上げられたことはいまでも良く覚えている。

ともあれドラフトにおけるドラマは今年も健在で、賛否両論はあれど外野としてはプロ野球選手としてのとば口に立った若いプレイヤーたちの悲喜こもごもなものを見せていただいてどうもありがとう、という感じだ。

話は変わるが、長く続く政治不信を改善し、もっと厳しく監視しなければならない状況に即したように政治に国民の目を集めるための方策として、国政選挙にドラフトのような仕組みがあったらけっこう面白いんじゃないかと思っている。
立候補を希望する人間が全員国会に集まり、出馬する選挙区をくじ引きで決めるのだ。

東京1区に地盤があれば、1区から出たいと思うのは当たり前だが、出馬できるかどうかは抽選次第。
くじ引きの結果、立候補者が定数に満たない場合は1次抽選の結果の権利を放棄して2次抽選に回ることもできる。
国政を預かる国会議員なのだから、どこから出馬しようが関係あるまい。
何より4年後にまた同じ選挙区から出る保証のないところで利益供与など起きるはずもない。
めでたく目していた選挙区から出られる人と、完全にアテが外れて途方に暮れる人の喜怒哀楽はきっと国民も大注目するだろう(予想オッズなんかが出たりして)。

というようなことを18歳の頃から言ってるんだけど、駄目ですかね(笑)。
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by ash1kg | 2011-10-28 00:57 | 日々雑感
家電品、物の怪となる
いよいよ来週24日でアナログ放送が終わり、東日本大震災で生尾きな被害を受けた東北3県を除いて地上デジタル放送に完全移行となる。数十万世帯が地デジ難民となる予測もあり、果たしてこのまますんなり移行できるのかどうか、怪しくなっている。
もともとはそれほどテレビを観なかったのだが、3月の震災以降、目を向けていないときでもテレビが付いていないと落ち着かなくなり、仕方なくテレビを買い換えた。総務省とのチキンレースに白旗を揚げて負けた気分である。

家電品の多くは生活必需品なので、壊れれば即座に買い換えてきたのだが、傾向としてウチはテレビに限らず、家電品が長持ちする。
洗濯機は15年使って買い換えし、掃除機は12年目にして故障し、新しいモノに買い換えた。
炊飯器にいたっては17年使い倒した挙げ句、壊れたのを機に処分したまま廃棄したまま土鍋を使うようになった。
我が家にある長命家電の双璧は冷蔵庫とテレビで、今年の秋でもう20年モノだったが、残念ながらテレビは20年を目前にして買い換えとなってしまった。地デジ化という外的要因がなければ平然と使い続けていたと思う。
いま書きながら、部屋にある家電品をざっと眺めてみたのだけれど、この部屋にある中で一番高い頻度で買い換えているのは、いま面と向かっているPCだった。

PCを家電品と呼んで良いのかどうか微妙なところだけれど、ともあれ家電品の新技術のスピードにはもはやついて行けず、携帯と並んで家電品を使いこなすことはもはや放棄しつつある。
「小さく」と望まれれば小さくし、「静かに」と望まれれば音がしなくなるように改善し、「エコ」と言われれば能力を維持したまま消費電力を減らすという具合。そのうち「折りたたみ式電子レンジ」とか「超軽量冷蔵庫」とか「回転しない洗濯機」とかも出てくるかも知れない、などと思ったりしている。
使わない機能が増えていることもあるだろうが、基本的に最新の家電品には最新の技術が搭載されている。使いこなせなくても、家電品は古いモノから買い換える方が効率が良いとも聞く。
まあそういうものなのだろう。

畠中恵の人気作に「しゃばけ」という小説がある。
まだ妖怪・音量の類が当たり前にその辺をうろついていた江戸時代を舞台にした娯楽小説だ。
その中に「付喪神(つくもがみ)」なるものが登場する。
付喪神とは煙管やら茶碗、茶釜の銘品など、長い年月を経たものに霊魂が宿り、妖力を持ったものだそうだ。
煙管やら茶碗やらが付喪神となるのならば、「5年一昔」と言われる現代なら20年モノの家電品が付喪神になってもおかしくはないかもな、と思った。

テレビの設置はあっという間に終わった。
拍子抜けするぐらいに小さく梱包された新しいテレビを僕に手渡し、運送会社のお兄ちゃんが二人がかりでわさわさと大きなブラウン管テレビを運び出しておしまい。
その間、わずかに3分程度。
これまでテレビがあった空間がすっぽりと抜け落ちてしまったようで、奇妙な喪失感に包まれた。
いままでテレビが占拠していた空間を見つめ、20年を目前に「ゴミ」となってしまったテレビも、もしかしたら付喪神になる途上にあったのかもしれないと思うのだった。


c0123210_1044160.jpg昨日は半年ぶりに会う友人と昼からビールを飲みつつ、飯を喰っていた。
彼はこれからの数ヶ月で1つの転機を迎えることになりそうだ。健闘を祈る。
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by ash1kg | 2011-07-17 10:49 | 日々雑感



影と光、記憶と個人的な記録
by ash1kg
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