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毎年『今年、記憶に残ったこと』と題して10とか20の個人的な記憶を書き連ねているが、今年は否が応でも震災のことに触れなければならない。
先日公開したWEBブック同様、震災の日のことを書くのは今年のうちにやっておかなければいけないことなのだと思っている。 あの日、自分に何が起きて、何が起こらなくて、自分がどこでどうしたか、多くの人が長く覚えているだろう。 かつてジョン・レノンが射殺された12月8日のことを今でも鮮明に覚えているように、老化で病的に惚けない限り、この先死ぬまでの間、3月11日のことは忘れないと思う。 日頃は物忘れが酷くて閉口するほどであっても、あの震災のような激烈な記憶については細部の細部まで覚えている自信がある。 だが、それでも今年のうちに書いておくべきだと思うのだ。記憶と記録は別物なのだから。 --------------------------------- とりあえず今年の更新はこれが最後。 みなさま来年は穏やかで心安まる一年になるよう、お祈りしております。 1年間ありがとうございました。 良い年をお迎え下さいませ。 --------------------------------- あの日、僕は吉祥寺で写真仲間のnicoさんと昼飯を食べながらビールを飲んでいた。 場所は井の頭公園近くにある海鮮居酒屋のような店である。 丼物を食べて、僕は2杯目のジョッキを半ばまで飲んだころ、14時46分がやってきた。 最初に揺れに気付いたのは僕である。 安っぽい丸椅子がぐらっと揺れ、「地震かな?」と思って頭上にあったテレビを見上げたのだが(僕たちが座っていた席は入り口から入って左側の壁寄りで、頭上には店内用のテレビがあった)、まだ特別な変化はなかった。 そして次にテーブルの上のコップがカタカタと揺れ出し、僕は「あ、地震だ」とぽつりと呟いた。 最初は小さかった揺れがそのまま急激に激しくなり出した。 店の中に吊されている提灯が揺れ、店全体が「ワサワサ」という音を立て始めた。 恐怖から反射的に立ち上がってしまったが、「これは大きい」と思いつつ、直下型の揺れではなかったことで震源が近いわけではないと判断し、揺れる中を歩いて建物の外に出て、道の向こうにある「いせや」の古い建屋の様子を見た。 いせやの前では並んでいる人たちが上を見上げている。電線が縄跳びの縄のように激しく揺れ、電信柱も折れるのではないかというほどに揺れていたが、いせやの建物は軋む音をたてていても壊れる様子はなかった。 いせやの建物で大丈夫なら、こちらも大丈夫だと考えて、僕は少し落ち着いた。 それでもまだ揺れは続いている。きっと電車は保線のために止まる。携帯もつながらなくなるだろう。僕はこの時点ではかなり冷静になっていて、その場で家族にメールを送った。 「いま吉祥寺。無事。電車はたぶん駄目。歩いて帰る」 送信ボタンを押して、僕は店の中に戻った。 生け簀の水槽からは水がバシャバシャと波立ち、床が濡れている。それでも積み重なった皿や、並んだグラスは一つたりとも落ちることなく、カチャカチャと音を立てているだけだった。 席に戻るとテーブルの下に潜り込んでいたnicoさんが椅子に戻り、不安そうな表情を浮かべた。 僕は気持ちを落ち着かせるためにトイレにいった(頭の中は冷静にはなっていたが、根本的に地震嫌いなので、心拍数はちょっとした運動並みにあがっていた)。用を足している最中も余震が来たが、本震ほどの揺れではない。 テレビでは東北が震源で深度6強と報じていた。 僕たちは荷物をまとめ、会計を済ませて店を出ることにした。 外に出てみると道を歩いている人たちに恐怖や不安のようなモノは見えなかった。 カップルは腕を組み、道すがらに店を覗き、何を買おうかと相談までしている。 店の中で慌てふためき、恐怖におののいた僕たちから見ると、井の頭公園に続く道にいる人たちは異様なほどに「普通」だった。 そのときはまだその後に気付くほどの出来事だとは思っていなかったのかもしれない。 丸井の前に着いたのが15時15分近く。ここで大きな余震に遭った。 ビルのサッシがガシャガシャと音を立て、通りにいた人は窓ガラスが割れて落ちてくるのではないかと、上を見上げた。信号待ちをしていた女の子達から悲鳴が上がる。 あれだけの揺れなら余震は起きるものとわかってはいたが、実際にビルの直下で大きな地震に遭う恐怖というのは別物である。それまで「普通」だった人たちもさすがに尋常ではないと気づき始めたようで、小声で話したり、つながらない携帯を何度もリダイヤルする姿が一気に増えた。 僕たちも相談し、nicoさんはバスで戻った方が良いと判断して、バス待ちの列に彼女が並んだところで別れた。 駅に行ってもどのみち電車は止まっているだろうと思ってはいたが、情報を取るためにも一度は行った方が良いだろうと考えたのだ。 駅につくと予想通り電車はすでに止まっていた。 井の頭線では改札口で駅員が拡声器で説明をしていた。JRでは駅のロックアウトが始まっていたらしく、駅から吐き出される人で道は混雑している。 人がごった返している中、再度余震が起きた。悲鳴があちらこちらで上がり、恐怖は増幅する。 都心のごった返しているところで震度5の地震に遭うより、だだっ広いところで震度10の地震が来る方が怖くないと言っていたのは大橋巨泉だが、なるほどその通りである。建物が密集している危険もあるが、それよりも群衆は恐怖を増幅させる。そのことを僕は初めて知った。 計画通り歩いて帰ることにしたとはいえ、nicoさんがバスに乗れたかどうかが気になって、バス停に戻ってみた。 彼女は心細そうな顔で列に並んでいる。 僕は彼女がバスに乗るまで列に並び、渋滞する道をバスがノロノロと進んでいくのを見届けてからバス停をあとにした。 いよいよ徒歩での帰還の始まりである。 このときには僕はすでにかなり冷静になっていて、吉祥寺から目黒までの距離はわからないままだったが、おおよそ20キロぐらいだろうと見当を付けた。 急行で渋谷までは15分ちょっと。電車の平均速度が40kmぐらいとして、急行ならば60kmぐらいにはなるだろうと計算。井の頭線の営業キロ数だと15km。電車は最短距離に近いところを走るから、帰宅まではおおよそ20キロという計算だった。 避難は避難だから、必要なのは水と食料だ。20キロを5時間で歩くとして、途中の補給でどれほど必要になるのかはフルマラソンを経験していたおかげで見当が付いた。 僕は一番近くにあったコンビニで食パンを1斤とペットボトルの水を2本、カロリーメイトを2つ、チョコレートを1枚買った。帰宅しても停電している可能性があるし、万が一買い物ができなくても、これだけあれば4食は凌げる。家に食材がないわけではない(それどころかこの日のような時のために、僕はかなり入念に準備をしていた)。ともかく今夜、火を使わずに何かを口にできるようにする。その準備だった。 こうして準備を済ませた僕はまずは井の頭公園を突っ切って、線路沿いに歩くことにした。 駅伝いに歩いて情報を取りながら進むという考えだった(これはアタリでもあり、ハズレでもあった)。 井の頭公園駅はさすがにパスして、三鷹台へ。道はわからなかったが、住宅街を歩いていても誰かしらが駅間を移動しているだろうという確信はあった。実際幹線道路ではなくても、どこの住宅街も歩いている人はいた。僕はその人たちに道を聞きながら三鷹台へ歩いた。 途中の住宅に被害は見られなかった。これは意外と復旧も早いかも知れないと思いながら三鷹台に着き、まずはトイレを借りた。 駅員に事情を話すと「混んでいてもバスで移動した方が良いんじゃないか」とアドバイスしてくれたが、吉祥寺の駅で道路の混み具合は眼にしている。どう考えても歩く方が簡単だし、確実だった。 幸いすでに日は長くなっていたし、日没までには勝手知ったる道まで辿り着く自信もあった。何より20キロぐらい歩くことは別に苦でもなんでもない。倍以上の距離を走る経験をすでに6回もしているのだ。ペース配分も平均速度がどれぐらいかもわかっているし、身体が覚えている。 「まあのんびり歩いて行きますよ」と駅員に言って、教えてもらった道を進んで久我山に向かった。 公園の水道で水分補給をしつつ歩いていると、どうしてもトイレが近くなる。かといって水分を取るのを控えるのは絶対に避けなければならない。久我山の駅で僕はまたトイレを借り(入れるときに入っておく。原則)、ここでも「バスで行ったら」という駅員さんに礼を言って駅を出た。 線路の脇を歩くのは路地を歩かなければならないことも多くて、効率が悪い。幸い久我山から高井戸までは線路と並行して川沿いの道を歩くことができる。高井戸から先は井の頭通りが電車と比較的近いところを走っているのを地図で確認できたので、高井戸までは休みなく歩き続けた。 ツイッターに書き込みをしようかとも思ったのだが、バッテリーが劣化している状態だったので、消費を抑えるために我慢。その代わりに持っていたiPodでラジオを聞いて情報を取っていた。 高井戸に着いたのが16時45分頃。 礼によってトイレを借りようと駅舎に登っていくと、構内にある区の出張所が休憩所代わりに事務所を開放していた。 中では置いてあるテレビを流している。僕はここで初めて津波の映像を見た。 尋常ではないと思ってはいたが、ことは僕の浅薄な想像を遙かに越える大災害だった。 僕は呆然としながらしばしテレビに見入り、17時を回ったところで再び出発することにした。 本当は構内にあるコーヒーショップで休憩したかったのだけれど、どこもかしこも満員だった。 駅から人見街道に出る途中の古びたビルで看板が落ちていたのと、人見街道が井の頭通りに合流する手前の寺で山門の瓦が落ちているのを見たのが、僕がこの日、自分の眼で見た唯一の地震の被害だった。 高井戸の駅で見た津波の映像と目の前にある風景のギャップにかなり戸惑った。 浜田山の交差点近くで並んでいない公衆電話を見つけて、千葉の両親のところに電話をした。 途中、元ヨメからもらったメールで市原のコンビナートで爆発があったことを聞いていた。 コンビナートから両親のところまでは5キロも離れていない。5キロもあればまあ無事だろうとは思っていたが、一度は連絡を入れておこうと思ったのだ。 電話には父が出た。 「僕。大丈夫?」 「大丈夫、大丈夫。お前は?」 「吉祥寺にいて、いま歩いて帰る途中」 「えー、どれぐらいかかるんだよ、それ。大丈夫なのか?」 「ざっと計算すると20キロぐらいだし、水も食い物も持ってる」 「なんだ、20キロか。じゃあ大丈夫だな。気をつけていけよ」 「うん、大丈夫。で、どうだった?」 「それがさ、栃木に行くつもりで車を出したら、高速の入り口の手前で地震に遭って乗れなかった」 「コンビナートは?」 「火柱が見えたよ。雷みたいな音がして外に飛び出したら空襲の時みたいになってた」 「まあ無事なら安心。余震もあるから気をつけて。停電は?」 「大丈夫。食料もあるし、津波は来てないから」 「そう、わかった。帰ったら電話するわ。繋がるかどうかわかんないけど」 「わかった。こっちは大丈夫だから気をつけて。まあ20キロじゃたいしたことないだろうけどな」 「そういうこと(笑)。じゃあね」 「はいよー」 連絡がついたことで一安心。20キロぐらいじゃなんとも思っていないところが体育会系家庭の良いところでもあり、悪いところでもある。苦笑いしながら僕はまた歩き始めた。 永福町の駅隣の交番でトイレを借りつつ、吉祥寺から目黒までの距離を教えてもらった。 予測通り約20キロ。 「歩いて帰るんですか?!」と警官は驚いていたが、僕は平然と「ええ。40キロまでは歩けますから」と笑った。 「この分じゃ5時過ぎたら会社勤めの人でごった返しますよ。おまわりさんもこれからが大変でしょう?」というと、その警官は「それは任せて下さい。とりあえずご無事で、気をつけて」と敬礼してくれた。敬礼にどんな意味があったのかは今でも皆目見当がつかないが、まあ警官も遭ったことのない状況に慌てていたんだろうと思う。 永福町まで来ればあと5分くらいで松原の交差点だ。明治大学には何度となく来ていたし、土地勘もある。首都高の下に出てしまえば次は大原の交差点を目指せばいい。ここまで来て僕の緊迫感は薄れ、松原の交差点に着いた頃には完全に日は暮れていたが(ちょうど18時ぐらいだった)、僕は少しだけ呑気になっていた。 松原の交差点まで来てみると、いきなり歩いている人が増えた。会社勤めの人たちが歩いて帰宅する波にぶつかったのだ。中にはスパッツにランニングウエアにランニングシューズ、背中にバッグを背負っているツワモノもいた。 どこまで帰るのかは知らないけれど、彼らにしてみれば電車が止まったところでそれほど慌てはしないんだろうなと思いつつ、よく観察していると「ちょっとこの5キロ、ペースが落ちたな」と会話をしている声が聞こえた。彼らにとっては地震で電車が動かないのもトレーニングのうちなのね、とちょっとだけ笑ってしまった。 かと思えば、会社から徒歩で帰宅するOLさん達の中にはヒールの人もいる。 小学生の集団下校のように固まって帰るように指示をされているのか、会社から支給されたとおぼしきヘルメットをぶらぶらと振り回しつつ、会社の愚痴やら何やらを喋りつつ歩いていた。 人間の本質というのはなかなか変わらないとは言うが、彼女たちの様子を見ているとまるで女子高生の下校そのものである。 「地震来たけど、明日の合コン、予定通りできるかなー」 「明日はけっこうイイ面子でしょ?やりたいよね。地震とか関係ないし」 「だよねー。ほんっと、いきなり地震とかって意味わかんないよね」 意味がわからないのは君たちの方だ、と言いたかったけれど、この状況でも変わらない図太さが実は重要なのかも知れないと思い直した。 その後の報道の映像などを見て、彼女たちが変わったのか、はたまた変わらなかったのか、それは知らないが。 首都高4号線の下は帰宅難民の列で、朝のラッシュ時の新宿地下道並みの混雑だった。 とにかく人が多い。僕は数少ない上り方向に向かう人間で、上手く前に進めないほどだった。 一応左右に分かれて歩いているのだけれど、帰宅を焦る人ははみ出してくるし、はみ出してくればぶつかるし、歩きにくさと言ったらなかった。 道路は大渋滞で車は止まったまま動く気配がないし、オートバイも道路にはみ出て歩く人の多さに負けて路肩は走ってこない。これ幸いとばかりに僕も大原の交差点までは車道を歩いた。 さて、大原の交差点まで来て、僕は一つ判断しなければならなくなった。 環七を回って帰るか、井の頭通りに戻って、富ヶ谷から中目黒を経由して山手通りで帰るか。どちらかを選ばなければならなかったのだ。 その間の道に池の上から三宿を経て帰るルートもあったのだけれど、三宿から五本木経由で目黒通りに出る道は知っていても、肝心の三宿までの道がわからなかった。ましてや日没後である。そのルートで冒険するのはリスクが大きい。三宿ルートは選択肢から外れた。 環七は店も少ない。したがって暗い。 あの日は普段とは比べものにならないほど町の中が暗くて、このまま環七を歩いて戻るのはどうかと思った。こうして僕は再び井の頭通りに入り、代々木上原を通って富ヶ谷に出るルートを選んだ。 町の中は日頃の東京とは似てもにつかないほどの暗さだった。 人の数こそ多かったけれど、暗さと人の多さのギャップが激しくて、そのギャップに恐怖を感じた。 永福町の交番でトイレを借りて以来だったので、代々木上原の駅に立ち寄ってみたら、代々木上原は駅をロックアウトしていた。トイレなら向かいのコンビニで借りろと言う。東急は貸してくれてるのに小田急はロックアウトかよと軽くキレつつ、駅の向かいの道を入ったところのコンビニに向かった。 コンビニの中は食料を買うために並ぶ人、トイレ待ちの行列で店内は一杯だった。だが、棚にはほとんど食料は残っていない。買い物もしないでトイレを借りることに申し訳なさを感じていたのだけれど、ここまで品物がなければ仕方がないというものだ。僕はおとなしく列に並び、用を済ますと、店の前で煙草を一本吸った。喫煙所は即席の情報交換所になっていて、吉祥寺方面から戻ってきた僕に質問してくる人も多かった。 いちばん多く質問されたのは道順のことで、次に多かったのはどれぐらい時間がかかったかということだった。 代々木上原から富ヶ谷の交差点まではひどく暗かった。 普段歩いているときにはそれほど気にならない距離である。歩いたって10分ぐらいのモノだ。 混雑でゆっくりとしか歩けなかったというのもあるけれど、この日は20分以上かかった。疲れもあったかもしれないが、それにしても遅い。暗い道を歩くのは精神的に疲れるモノだと実感した。 富ヶ谷の交差点にかかった歩道橋の上にはこれまで見たことがないほどの数の人がいた。 富ヶ谷まで来てしまえばあとはどうにでもなる。原宿に出るのも渋谷に出るのも、中目黒に出るのもすべて道はわかっている。 少々腹が減っていたし、脚が疲れていたので、中目黒でラーメンでも喰ってから帰ろうと決めて、僕は大橋のジャンクションを通って中目黒に向かった。 駅の手前の店でラーメンを食い、あとは日頃の散歩コースをてくてく歩くだけである。 ドン・キホーテの自転車売り場で飛ぶように自転車が売れているのを眺め、満員のバスを眺め、中目黒の駅で写真を撮り、目黒不動を経て帰宅したときには21時45分になっていた。 玄関では姿見が落ちて割れ、室内の書棚からは本がすべて飛び出していた。 テレビを点けると津波の映像が繰り返し流されていた。 短い間隔で起きる余震のことよりも疲れが先に立って、僕はすぐに寝ることにした。 デイバッグに買ってきたパンと水、ベッドの近くに靴を置き、いつでも飛び出せるようにジャージではなくカーゴパンツをはいて倒れるように眠ってしまった。 これが3月11日の14時46分から後に僕が眼にし、感じ、考えたことである。 歩くのはそれなりに大変だったが、いちばんありがたかったのは、歩いている途中、2度しか余震を感じなかったことだ。高井戸の駅にいるときに一度、代々木上原の駅近くで一度、それ以外はまったく知らない。これは地震嫌いの僕には幸運だった。 誰かに伝えるためではなく、忘れないために書いた。 < 前のページ次のページ >
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