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![]() 僕がまだ十分に若かった頃 ―― つまりは「昔」の話だ ―― レンタルギャラリーを借りて気軽に写真展を開くなんてことはなく、せいぜいが学園祭/文化祭での写真部の展示、それでなければカメラ雑誌への投稿や、コンテストへの応募といった方法しかなかった。 もちろん観る側とて同じことで、教室を即席ギャラリーとして改造した展示にはカメラ好き/写真好きのオジサンが集まり、良く言えば指摘を、悪く言えばけなし放題で帰って行くというのが毎年の光景だった。 昨今、フィルムや感材は減っていく一方なのに、カメラ人口は増え、ギャラリーを借りて展示をすることも珍しくなくなった。ギャラリーのオーナーに話を聞くと、8割方が写真の展示だという。まさにブームだ。 写真仲間が集まる社交場としての機能もあるように見えるが、まあそれぞれがそれぞれのスタンスで写真を楽しんでいる。誠に結構なことだ。 そういった場でもあるので、ギャラリーでは展示している写真を褒める声があちらこちらから聞こえてくる。 写真展に至るまでの労力は決して小さいモノではないので、そこにまで辿り着いたことはそれだけで十分に褒められて良いモノだとも思うが、その一方で昔のようにコテンパンに叩きのめされるような厳しい指摘をするようなことが無くなってしまったことに多少の違和感を感じる。まあ個人的な記憶がそうさせるのかもしれないが。 僕も少なからずやり込められ、蹴りの一発でもお見舞いしてやろうかと思った経験があるのだけれど、考えてみればどうして見知らぬオッサンにそうまで言われたのか、自分でも良く判らない。 当時、なんでああまで言われたのか(しかも公衆の面前で)、疑問に思って友達に聞いてみたら、「そりゃ当時は趣味の写真なんてなかったからだろ」という答えが返ってきた。 確かに当時は趣味の写真というカテゴリーは無かった気がする。 ネットもなければブログもなく、個人的に撮るとしたら家族写真であり、旅行での記念写真であり、それはすなわち人目には触れない写真で、アルバムにしまい込まれるために撮られた写真だった。 「見せる」というのは極めて例外的で、「見せる以上、評価される前提で作られている」という共通認識があったように思う。 だから僕が通っていた高校程度であっても、文化祭での展示前には先輩の怒号・叱声が付き物だったし、壁に掛けた以上、アサヒカメラや日本カメラに掲載された写真や、極端に言えば当時第一線の写真家達と同列で比較・批評されていたのだと思う。 そこには「高校生だから」みたいなエクスキューズはまったくなくて、それゆえにレベル違いの厳しい指摘やら批評やらが僕らに向けられたのだろう。 けなすことやあら探しを楽しんでいるような向きもあったけれど、中にはぐうの音も出ないほどに正しすぎる批評も間違いなくあった。それで感じた悔しさや、凹んだりしたことは後々、反抗心や意識転換に繋がったわけで、それなりに役に立ったと思う。 もちろんあのオッサン達がそんな切磋琢磨を期待してアラ探ししていたようには、今でも思えないけれど。 そういう意味では、技術の進歩できれいに撮ることが簡単になり、ノウハウについても容易に知識を手に入れられるようになった今は幸福なんだろう。初期の試行錯誤ナシに、中間地点までいきなり踏み込めるのだから。 でも今になると、あのムカツク指摘や批評、積み重なる失敗を経験できないのは、決して幸福なことではないんじゃないかとも思う。 今は「趣味の写真」というカテゴリーがあるおかげで、指摘や批評をしたくてもできない状況でもあるわけで。 まあその中に安住したい人はそうするのだろうし、満足しきれない人は覚悟を決めて外に出るのだろう。 彼らはまったく違うのだから、それで良いはずだ。 ちなみに当時言われた言葉で一番きつかったのは「貧困で自分勝手な想像力で写真並べられても、ゴミにしか見えないよ」でした。 あれは厳しい一言だったなあ。 (写真、差し替えました) ![]() 写真仲間の女性5人が集って開いた写真展「そして僕はいつか」を観に吉祥寺まで行って来た。 彼女たちはそれぞれの個性と感性で受け持つべき壁面に写真を飾っていたわけだが、やはりそれぞれに興味嗜好の向く方向は違うのだな、と一見して判るほどに彼女たちの写真の間にある差異は大きなモノだった。 同じぐらいの長さのレンズを使い、被写体までの距離感も非常に似た距離で撮る人達だと知っていたので、余計に差異が生まれるのか、はたまた結果は似通うのか、それを観るのが楽しみだったのだけれど、そんな浅薄な予想などすぐに吹き飛ばされるほどに彼女たちの写真には明確な違いがあった。 最近、写真展に行くと作家本人からできるだけ話を聞くようにしている。 作品のことのみならず、バックボーンとか、作る動機になったこととか、周辺的な事柄まで含めて話を聞き、同意する部分があればその話をし、見解に差異があればその差異がどうして生まれるのか、さらに話を聞き、考える。 そうすることで自分にも発見があり、幸運が重なれば作家本人にもなにがしかの発見がある。 いずれにしても自分の言葉で語ってもらえる展示というのは、ただ写真が飾られている以上に奥行きがあるものなのだ。 写真を言葉で説明することに否定的な人たちがいる。 「写真のことは写真で語れ」ということなのだろうが、それも正論だと思う。だがそれはあくまで語るべき何かを持っていることと、語ろうと思えばいつでも語れる前提があってのことだ。 今日は5人のうち3人が在廊し、僕は彼女たちにいろいろと話を聞いた。 彼女たちは自分たちの言葉を持っていたように思う。それだけ展示に至るまでいろいろなことを考えたのだろうなと思う。 だから写真展は大変で、楽しいのだ。 それにしても彼女たちが作った本には頭が下がった。 本は「ブック」などではない。 背が固められ、表紙から始まり、奥付で終わる「本」を作るには展示プランを練ることよりも遙かに集中力と繊細な感覚が必要なのだ。 よくもまああれだけの分量の本をまとめたモノだ。 彼女たちの写真展を見に行く機会があるなら、壁面を観る時間の倍を費やす覚悟で、彼女たちの本を観てもらいたいモノだと思う。本作りをしたことがない人にとっても、自分でも写真展をやってみたいと考えている人にも参考になること大だ。 「そして僕はいつか」 gallery re:tail ![]() 外出のついでで申し訳なかったけれど、今日は二つの作品展にお邪魔してきた。 一つはこの珍しい名字を持つという共通点のあるフェイスブックでお付き合いのある狐塚さん一門の書の作品展、もう一つは森岡書店で開かれている「久保友作 + 山田浩之 二人展」。 初めて知ることが多くて、有意義な訪問になった。 狐塚さんの一門展では書の見方を教えていただいたのだが、その要諦は「密度と余白のバランス、計算された抑揚、堂々とはみ出す勢い。そしてたくさん書くこと」。 まるで写真のようではないかと思いつつ、ギャラリーを出て歩きながら咀嚼をしているうちに、これは書や写真に限ったことではないと気付いた。絵でも映画でも物語でも、それどころかスポーツでも音楽でも、料理ですら通じることじゃないかと。 それどころか人生にすら通用する原則かもしれない。 森岡書店では画家の久保さんが在廊されていたので、しばらく話をさせてもらう。 作品作りのこと。手帳に描かれることになったいくつかの理由。 大阪出身の物腰の柔らかい口調の中にも、モチベーションが強く保たれている理由が口をつき、彼は絵、僕は写真という違いはあれど、少なくない共通点をみつけて、僕は嬉しくなってしまった。 展示の中に印画紙を画材として作られた作品がある。 それは紛れもなく「作品」なのだけれど、それが写真であるのか、絵画であるのか、僕ははたと困ってしまった。 だが本当は困る必要などないのだろうと思う。 そもそも困るということ自体、自分がいかに先入観に囚われているかの証左なのだ。 なにがしかの部分では「写真」とか「絵画」とか「書」というカテゴリー分けは必要なのかもしれない。 だが、それは作り手とは関係のないところで、必要な誰かが必要に迫られてすることであって、作り手自らが自分の入る箱を選ぶ必要などこれっぽっちもないのだ。 開発技術が進化した今、写真を撮ることはさほど難しいことでも、特別なことでもなくなった。 昔と比べれば「撮れてしまう」写真も多くなっていることだろうし、フロックの頻度も高くなっているはずだ。 もしかしたら極めて高品質なフロックそのものを再生産することすら可能かもしれない。 だからこそもっと自由で良いのだと思うし、自由であるべきだと思う。 自ら望んで囲まれたワクの中に安住し、まるで似合わない制服のようにマットを掛けられ、額装されたのでは窮屈になるだけだ。 すっかり日が伸びた夕方の街を歩きながら、僕はそう思った。 ![]() あくまでデジタルデータ ―― つまりは正体があるようでなさそうなあやふやなもの ―― としての活用の域を出ないのだけれど、WEBサイトのコンテンツとして試してみたいことがあって、先日からせっせとInstagramに写真をアップしている。 先日も書いたことだけれど、iPhoneに何か写真的な意義を見出すとしたら、一義的には世界で初めてほぼ同一の見え方を提供したことにあるように思う。だが、その一方で、過度にきれいに見えるこの環境が果たして良いことなのかどうか、ちょっと考えてしまうところもある。 iPhoneで撮ったデータにエフェクトをかけてアップする。そのデータをPCに移して見てみると、およそ他では使い物にならない汚い画像になっているということが良くある。エフェクトをかけない画像はコンデジと比べても遜色はないが、あのエフェクトとというのはいただけない。 だが、ユーザーの多くはあのエフェクトにこそ面白みを感じているのだろうし ―― それは自分好みの写真を選びつつ作れるという手軽さも含めてのことだ ―― 僕もそれ自体が写真的ではないとか、間違っているとは思わない。だって本当に手軽だし、手軽なものに人が集まるのは道理だ。 ただ一つだけ思うのは、写真を撮ることをiPhoneで始めたという人が出てきたとしたら、のちのちトリビアルに、ヒストリカルに写真を経験していこうとしたときには、スタートが実は最大の障害だったということになるんじゃないかということだ(これはMacBookにも共通して言えることでもあるのだが)。 なにしろ自分の手の中にある一番身近な物で他の何よりもきれいな写真を見ることができるのだから、わざわざ手間暇掛けてそれ以下の写真を創る行為に手を染めないんじゃないかと危惧してしまう。 もちろんiPhotographerなんて言い方が出てくるような現状では、僕の考えていることはすでに時代遅れのたわごとである可能性もある。だが僕から見ると、iPhoneの写真のようなものというのは、入り口としては限りなく敷居が低く、突き詰めるにはあまりに距離が遠い物のように見える。 もっとも、いちばん身近にあり、いちばん手軽に使え、なおいちばんきれいに見せてくれるというのだから、産業製品として優秀であることは間違いない。 だが、えてして敷居の低さ、過度の便利さというのは何かを突き詰めていくこととは真逆にあるような感じがする。根拠がないので、あくまで予感だが。 ![]() 昨日はバレンタインデー。 学校や職場でドキドキ・ウキウキした人もたくさんいたことだろう。 ここぞとばかりに腕まくりをするお菓子メーカーをよそに、僕はバレンタイン・デーということも忘れて極めて平穏な一日を過ごしていた。 寒さのあまり、久しぶりにカレーでも仕込もうと準備をしたのは良かったのだが、近所のスーパーで隠し味に使うチョコレートをレジに出したら、それまで愛想の良かったレジの女の子が急に無表情になって、今日がバレンタインデーということを思い出した始末だ。 バレンタインデーも来月のホワイトデーも、有り体に言えば製菓業界の掌の上で踊らされているに過ぎないわけだが、そんな無粋なことを言っても始まらない。こういうイベントは多かれ少なかれ似たようなものだ。微笑ましく眺めていれば良いのだろう。 そういえば書店なのか、出版業界全体なのか、本を贈る「サンジョルディの日」というのを流行らせようとしていたけれども、あれはどうなったんだろう。しょせんは二匹目の土壌というか、毎年、書店でちらっと見かけはするけれど、どうもパッとしない。 贈る物が食べてしまえばどうにかなるチョコレートならまだしも、本となると、贈る方、贈られる方、双方の知的レベルが測られるようで、サン・ジョルディの日の流行は難しいのかもしれない。 そういえば小学校に入って、図書室で一番最初に読んだ本は大石真の『チョコレート戦争』だった。 面白くて、立て続けに4~5回読んだ覚えがある。 喰ってしまえばオシマイというチョコレートも悪くはないが、こういう本なら洒落が効いててなかなかセンスがいいんじゃないだろうか。 出版業界の近視眼的な企みにはまだまだ検討すべき余地が大きいようである。 ![]() 昨日、あれこれ散々試してうまく行かなかったクリッカブルマップでLightbox2を使う方法。 サンディエゴに暮らす写真仲間で、本職はWEBデザイナーのtomoさんのおかげでJavascriptの修正ソースを教えてもらい、無事に動くようになった。 挫折しかけたときはオンマウスで輝度が変わるようにしてLightboxを動かそうかとも思ったのだけれど、シリーズを作っていく上での作業はできるだけ簡便にしておきたいという希望もあって、イメージマップが使えないならサムネイルを並べるだけで我慢しようと思っていた。 おまけにカリフォルニアのBlueMagicさんにはマックでの動作確認までしてもらい、みんなに助けてもらってばかりである。持つべきものはというけれど、友人というのは本当にありがたいものだ。 持つべきモノはといえば、このシリーズを作っていてふと気付いたんだけれど、iPhoneというのは世代によって多少の差はあれ、それぞれの家のモニターほどの差はない、世界中でどこの誰が見てもほぼ同じように見えるスグレ物だということに気が付いた。 色の崩れや明るさなど、モニターの違いによって生まれる見え方の差は視角に訴求する写真に撮っては大敵である。その差がないとなれば、写真はiPhoneで見るのが一番ということになる(あまり嬉しくないけど)。 写真を見せようというなら、持つべきモノはiPhoneなのかもしれない。 ともあれお二人には大感謝です。 ありがとうございました。 (写真はイメージマップ化前のモニター) ----------------------- 改訂版 シリーズ『東京タワー』 http://kitsunezuka.net/book/ser_01.html ![]() 昨日書いたフツーじゃない使い方の帰結として、WEBサイトに1つ、コンテンツを追加した。 デジタルカメラ~PC~iPhone~instagram~WEBと流転して原型からはずいぶん形を変えて戻ってきた写真たちをまとめてみた。 サムネイルはショーケースのような陳列状態になってるけれど、本当は上の画像のようにパッチワークのようにしたクリッカブルマップからライトボックスを開きたかったのだけれど、どういうわけか何をどうやってもうまく行かない。そんなわけでいまのところは実に陳腐な状態である。 「サムネイル→拡大」というのはオーソドックスだけれど、僕はあまり好きではない。 部分を見せて、その後に全体を見せる方が「おおーっ!」と思わせやすい。 サムネイルを見ただけで全体が見えてしまっている写真なんて退屈じゃないかと思うし、そういう期待感がない見せ方ってそもそも面白くないと思うわけだ。 下世話に言うなら「チラリズム」の方がワクワクするわけで。 そんなわけでどなたか親切な方がいらっしゃったらクリッカブルマップでJacascriptのLightbox2を動かす方法を教えて下さい(笑)。 ----------------------- シリーズ『東京タワー』 http://kitsunezuka.net/book/ser_01.html 良ければ見てやって下さい。 ![]() Instagramは面白いと聞いていたけれど、確かに面白い。 写真との付き合いが長ければ長いほど、、この荒唐無稽さを面白く感じられるんじゃないかと思ったり。 それほど表面的で何も生み出さない、その場限りの使い捨てというか、たわいもない落書きというか、消化されないまま排出される栄養価の全くないもののようだというか。 聞けば「iPhonegrapher」なる造語もあるのだとか。 少なくとも僕にとっては「制作」的なところからほど遠く、どちらかと言えば排泄に近い気すらするけれど、それでもこれもまた写真の有り様の一つ。軸がぶれないままで量を積み重ねていけるのならば、Instagramもまた写真を見せる一つの場所となるはずだ。 と、貶しつつも写真を一度客観視するには良いクッションになっているのも事実で、今日も何か面白い使い方はないものかと考えた挙げ句、デジタルカメラで撮った写真をPCでトリミング~リサイズし、iPhoneで加工。Instragramにアップした後、データをPCに吸い戻して、何も考えずにフォルダに放り込む。そうした有象無象が貯まったところで何か共通項が見いだせたならば、それをWEBサイトにアップする。 データが右往左往・紆余曲折・変遷変化をしながら、延々とあっちこっちをさまよい歩く。 それも面白い使い方だと考えついた。 とてつもなく面倒くさくて、馬鹿馬鹿しくて、フツーの使い方じゃなくて面白い。 僕にとってはコインの裏側のようなものでしかないけれど、でも表側しかないよりもずっといい。 ![]() 昨年暮れにオープンした中目黒のギャラリー「Poetic Scape」で、今日まで開催していた熊谷聖司さんの写真展「Spring 2011」。 散歩で行ける距離ということもあるのだが、ギャラリーのサイトに出ていた写真を見てから、珍しく「どうしても見たい」という衝動に駆られて、昨日、写真仲間のトマさんと一緒に2度目の訪問をした。 震災が起きた年の春を撮っておかなければと思って、熊谷さんはレンズにワセリンを塗って外に出たのだそうだ。 ワセリンの膜の向こう側で現実は曖昧にぼやけ、光が柔らかく揺らめく。 地震のあった年の春ということではなく、僕には僕の中に在るいつか見た春という感覚が薄れない。 最初に来た日の夜には、なぜかとても懐かしい春の風景を前にさめざめと泣いている夢を見たほどだ。 写真というものは撮影者の意図にかかわらず、見た人間の内部に呼応するものでもある。 「私はこう作った」「私はこう見た」という距離感が絶えず起こり、そのギャップが新たな発見や、お互いの理解に繋がる。 決して長い時間ではないが熊谷さんと話をさせてもらって、見方や見え方の差異について決して小さくない発見があった。それはしなやかに強い意志がまるっきり別のところにあるような感覚だった。 レンズにワセリンを塗って撮る手法はそれほど珍しいものではない。 高校の写真部の部室には「ワセリンレンズ」と呼ばれている部所有のレンズがあった。 ソフトフォーカスフィルターなんてものが手に入らなかった頃、僕たちもそのワセリンレンズで撮ったことはあったが、部のレンズは手入れもされないまま塗り重ねられていった様々なもののために ―― おそらくはワセリンを拭き取ることもしないまま、上からポマードだのサラダオイルだの、いろんなものを塗ったのだろう ―― とても「写る」なんて言えるシロモノではなかった。 一度ワセリンを塗ったレンズは、分解清掃に出さない限りワセリンは落とせない。 つまりそれ専用、裏を返せばハナから1本のレンズを潰すつもりで使うということなのだ。 (「そんなのフィルターに塗れば良いじゃん」と思う人もいるだろうが、そう思ったなら試してみると良い。レンズに直にワセリンを塗ったものとは写り方が全然違うから) 写真はカメラで撮るものだが、カメラが撮るものでも、ブランドが撮るわけでも、レンズが撮るわけでもない。自分が撮るものだ。自分が撮らなければ、写ったものに自分が写り込むはずがない。 迷わずレンズにワセリンを塗って、外に向かう。 こういう「意志」の有無が、特別な資格など要らず、技術の進歩によって縮まったにもかかわらず、未だにはっきりと残る「写真家」というものと、そこに辿り着かない人をわける境界線なのだろう。 今の僕にはレンズを潰す勇気はないけれど、イメージから喚起される何かによって語り合えるような写真が撮りたいと改めて思った。全然別のやり方で。 春が苦手の僕にしては珍しく、今年は春が待ち遠しい。 ![]() 今日は節分。 暦の上では明日からは春だ。 急遽、写真仲間のトマさんと会えることになり、昼飯をご馳走になったあと(ごちそうさまでした!)、予定していた目黒不動の豆撒き式へ。 トマさんは日本在住も長いのだが、豆撒き式に来たのは初めてとのこと。 台の上から豆が撒かれる様子や、それを必死になって奪い合う群衆の豹変ぶりにビックリしつつも、人だかりの真ん中で写真を撮り、興奮していた。 僕と言えば、普段は微妙な駆け引きや、プッシングすれすれのきわどい技を駆使して豆を手に入れるのだけれど、今年は黙って見ていれば豆が僕のところに飛んでくる好位置で、最終的に17個の豆をつかみ取った。 ポジションが良かった。 一つも取れなかったという親子にいくつかお裾分けをし、その後はギャラリーコスモスとポエティック・スケープをトマさんと共にハシゴ。 明日で終わる熊谷さんの作品にはやはり理由の見つからない幸福な郷愁を感じるのだった。 帰宅後は自室の豆撒きと恵方巻の丸かじりをし、これで節分の行事は完了。 自室で北北西を測ろうとする難しさには驚いた。 その後あれこれを少々整理。 今は眠気100%だ。 < 前のページ次のページ >
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