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修辞的残像
修辞的残像_c0123210_054281.jpg


外山滋比古の『アイデアのレッスン』を読んでいてふと思い当たったこと。

英語のように独立した単語の羅列で作られている言語が、文章になるとひと連なりの
意味を帯びるのはなぜかという疑問に対し、「言葉の修辞的残像」という答えを呈示
していた。
唐突に考えたのは、表現と呼ばれるもののある一面というのはすべからくこの「残像」で
表されるのではないかということだった。

確かに映画はスチル写真の連続物なのに、観客は1枚1枚のカットそのものを見ている
のではない。連続性のなかから生み出される「印象(=残像)」を受け取っている。
「印象」を「意味」と言い換えても良いのかも知れない。
そして、そういった恣意的に連続性を与えられた断片と、そこから醸しだされる余韻を
「物語」と呼ぶのではないかと考えたのだ。

翻って写真のことを考えてみる。
会場に並べて飾られた写真に、言語や映像ほどの連続性を見いだすことは難しい。
少なくとも僕にとっては。
写真集にしても連続性というよりも断片性(という言い方があるのかどうかしらないけど)の
方が勝っているように感じる。
もちろん写真には1カットで完結させる美学や記録性という側面、被写体の造形的な美しさを
撮影するなど、タブロー的な表現という捉え方がある一方で、メタテクストに主眼を置くという
捉え方もある。写真は絵画的な前者と、映画・小説的である後者とせめぎ合いをしている
ように見える。
いずれにしても「写真的」ではないところは写真の弱点だろうし、絵画と映画では合意点は
なさそうである。

写真が1枚で存在しないのならば、そこには理解可能な文脈があるべきだと僕は思うし、
修辞的残像を帯びない写真群が何を意味するのか、僕にはよくわからない。
あくまで一つの価値観として。
残像は印象であり、印象であるからこそ何年経っても目にした誰かの心に残るのだと僕は思う。
by ash1kg | 2010-03-14 00:56 | 写真日記
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影と光、記憶と個人的な記録
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