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アートとアートっぽいモノの境界線について
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遅ればせながら横浜トリエンナーレに行って来た。
現代芸術音痴の「なんちゃってアート好き」である僕には理解不能のモノばかりであったけれど、こういうものは理解する前提で作られていないような気もする(そこがいちばん気にくわないところでもあるのだが)。
制作者がわかりやすくしてないのならばこちらが勝手に善し悪しを判断しても文句はなかろう。制作者の意図とは全然違う受け止められ方をしていたのならば、その責任はわかるように作れない彼らの側にあるのだ(と、これはほとんど言いがかりに等しい)。

今日見たのはおそらくは本物のアートであり、アーティストだったのだと思うけれど、ああして結果だけ並べられてもそれがアートなのか、ただアートっぽいだけなのか、実はアーティストなりたがりが作った意味のない羅列なのか、正直言って境界線が全くわからなかった。
少なくともそこには意図があるはずなのに、見た目の美しさや面白さに勝る意図を無言で訴えてきたモノ ―― 疎い僕にですら理解可能な言語で訴えてきたモノ ―― は数えるほどしかなかった。
まるっきり意味不明の作品は無目的で並べられたもの、意図があるように見せかけているだけのものにすら見えた。
だが、そもそもアートなるものとアートに似たものの間にそんな明確なラインってあるんだろうか?

「売れたらアート」ってのが基準だとしたら、これ以上にわかりやすい境界線はないんだけど、そういうことでもないようだし、こうして招待された人たちが一つの場に集まって展示をするのだから、どこかには明確な境界線があるはずなのだが、皆目見当がつかない。
そんな曖昧な境界線なのだとしたら、最先端もトップも底辺も、三流も一流も、実は妄想によって作られた集合的な錯覚なのではないかと考えたりもする。
わかる人だけにわかるという普遍性を目指していないモノなのであれば、そんなものをわざわざ見に行くというのはわかったような気になって楽しんだり、わからないことを楽しむという、およそ本質とはかけ離れたところで遊んでいるに過ぎない(見た目の美しさや面白さを楽しむという至極真っ当な楽しみ方は全然アリだ、もちろん)。

僕には今日見た作品の面白さは網棚に残されていた新聞の4コママンガがたまたま面白かったのと似たり寄ったりの程度のものであったし、言うなれば少々きれいな包装紙でくるまれた日用品みたいな感じである。
中には素人の僕が見ても恐ろしいほどに計算され尽くしていることがありありとわかる作品もあって、そういうものを作ってる人は紛れも無く本物なんだろうけど、そういう作品に限ってぱっと見にはただ適当に遊んでるようにも見えるから始末に困る。

「フロックで出来てしまったものはアートではない」らしいけど、アートなるものがこうして結果でしか量られないものであるなら(プロセスはほぼ無視されるものであるなら)、まぐれだろうが計算尽くだろうが、どっちだって構わないじゃないか。それもこれもすべてアートなんじゃないのかと。
もしそうなのであれば、100円ショップで売っている洗濯ばさみだってアートたり得るだろうし、路地に転がっているコンクリートの破片を三宝に載せただけでアートだとも言える。街角でやってる1本1000円の包丁研ぎだってアートだ。

「いや、そうではないのだ」と“わかる人“は言うのかもしれない。
だとしたら、彼らとトリエンナーレに出品した「アーティスト」なる人の間にはいったいどんな違いがあるのか。
僕にはまったくわからないのだが(しかもこの疑問は一端でしかない)、この疑問をわかりやすく説明できる人っているんだろうか。
もしいるのなら、どうして今日までそれはもっと伝えられていないのか、不思議だ。
つまり、誰もわかってるようでわかっていない、みんなが「わかってることにしておこうよ」と無意識のうちに口裏を合わせているんじゃないかと、ひねくれ者の僕は思った次第である。

そんなこととは関係なく、単純に楽しめるとても面白い作品もあって(特に乱雑に荷物やソファや畳みが置かれたスペースは面白かった)、ほぼ半日の間、十分に楽しんだのだった。

だったら文句を言うなって?
それはそれ、これはこれ、だ。
by ash1kg | 2011-11-05 01:16 | 写真日記
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影と光、記憶と個人的な記録
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